恩返しをしたいな。-家族との温かい時間-

また、泣かせてしまった。

 

聞いたことがある。

親と過ごす時間って、思ったよりも短いらしい。今の両親が50ぐらいの年だとして、そこに自分の生きてきた年を足すと、平均寿命に非常に近づく。

 

つまり、もう自分が親と過ごせる時間は折り返し地点のかもしれない。

それに、今は下宿しているから、幼稚園や小学校、中高の時ほどの時間を共には過ごさない。今からずっと親と一緒に生活すれば、同じぐらいの時間は取り戻せるかもしれないが、それは非現実的なのかもしれない。

 

寂しくなってきた。普段から家族の時間の貴重さはわかっているはずなのに、どうしていつも、お別れの時に悲しくなるのだろう。

 

 

 

記録というわけでもないが、ここに、楽しかった思い出を書き連ねておく。

晦日の前日には祖母の家へ行き、餅を食べた。夜はゆっくり過ごした。

晦日の日には、日中はギターを弾いたり軽い仕事をしたりして、夜には家族で美味しいご飯・年越しそばを食べながらテレビを見た。

元旦には近くの大きいショッピングモールで昼食をとり、ゲームセンターへいき、夜にはカニを含む豪華な食事をとった後にテレビゲームをした。家族全員でするゲームは最高に楽しかった。

元旦の翌日には、祖母の家で親戚と会った。成長したいとこもそのペットも、短い時間だけど会うのが楽しかった。祖母ももちろん。後どれだけ元気に生きてくれるかな。

 

毎日が充実していたような気がする。家族との時間は、常に喋っているわけではない。ゲームをしている時もあれば勉強している時もある。でも、その中で時折挟まれる団欒が楽しくて。

 

でも一番は、その裏で常に動いているお母さんかもしれない。

下宿に持って帰れるようにたくさんの作り置きや野菜の下拵え、これから必要になる物品の準備を着々と進めてくれていた。

 

 

母は昔からそうだった。

 

子供を大切に大切に、おせっかいと思われるほどに丁寧に扱ってくれるのが、嬉しかったし母にとっても生き甲斐だったと思う。それは今でも変わらない。

 

だからこそ、また下宿に戻ることが、実家から子供の姿がなくなることが、悲しいのだと思う。毎回、初めての一人暮らしの夜のように涙をこぼしてくれる。

 

嬉しい反面、私が傷つけているのではないかという罪悪感がある。

同時に母は、仕事をしていながらも毎朝早起きして、体に負担をかけ続けて、だからと言ってゆっくりした空間にいれば体が劣るような気もして。

 

なんか今日は、もう少し実家にいたいな

と、そう思った。

なかなか会えないからこそ、幸せなんだと思う。きっと。

 

また、一緒にゲームしよ?

 

2026/01/02

あなたは、金です。生まれてきてくれて。

先日、生まれてすぐに亡くなるとわかっていて、出産する人の話を聞いた。

 

医療業界ではよくあることだ。でも一般人の私たちには、ピンとこない。

その話を聞くと うるっとくるのは、まだ悲しさに麻痺していない証拠だろうか。

 

 

・・・

 

今日、お腹の中にいる自分の子供が絶対に死ぬ。

生まれたてで、この世の新鮮な空気を吸って息もほとんどできないまま、いや、息がほとんどできないから。

 

予定手術によって、生まれて死んでいく命があることを知った。

 

 

命日がこんなにもはっきりわかっているのは、赤子特有だろうか。

末期の高齢者がもうあと2,3週間の命ですよと言われているのとは、また少し違う。

はっきりと命日がわかる。

 

でも、高齢者と赤子の命の儚さは等しく感動させられるものがある。

年老いた人は、それまでに培ってきた知識、努力、人との交流が全て蔑ろになる。その瞬間が儚く、やるせない。だから感動する。

一方で子供はまだ何も培ってきたものがない。強いていうなら、母親が大変な思いをして妊娠を終え、成果を発揮するその瞬間であるということだ。でも、それより儚く感じさせるのは、その赤子が将来素晴らしく生きていくであろう数十年を思い、果たせないやるせなさでいっぱいになるからではないだろうか。

 

つまり、

命が尊いのは、時間の問題を解決できないからだ、と私は思う。

 

・・・

 

命は、たったひとつ生まれるまでに、数多くの犠牲がある。

生殖の過程でひとつの卵しか生まれないというだけでなく、子供が欲しくてもうまく子供が持てない状況・環境。お腹の中に子供がいても、自由に生まれられないこと。

それらたくさんの家庭を乗り越えて自分がいることを、勝ち組の私たちは築くのが難しい。

 

生まれた時から、自分も親も金でできた時計をつけていたら、木でできた時計がこの世に存在することすら、知るまでに時間がかかる。あるいは受け入れられない。

 

人は、果てしない量の泥を篩にかけてようやく見つかるたった一粒の金、その集まりなのに。

それこそ、ありったけの時間があれば、多少の金は手に入るだろうか。

 

泥が儚く溶け散るから、金が見つかった時が美しくなるなんて、誰が言い出したんだ。

 

2025/11/14 子供と老人と、金と泥に思いを馳せて。

旅行へ。得るものと失うものを比べたがる私へ

また、一泊二日の旅行に行ってきた。今度は家族と祖母の5人で。

 

今回も、子供の頃に行ったことのある場所に行ってきた。その時は興味を持っていたものも、今は全然興味を持てなくなる、そんなことはこの世の誰もが通過する過程だ。

 

でも、それは別の何かに興味を持っているということでもあるのかもしれない。昔描いていたファンタジーがあまりに幻想すぎて、現実味がないから心が惹かれない。

一方で、より現実的な視点を持つ。この施設の経営はどうなっているのか、どうやって広告しているのかという経営面や、自分が今この施設に馳せている思いはどうやったら人に伝わるのか、あるいは伝えなくていいのか...など。

考え出すとキリがないその思考に、自分でも呆れる。

 

そうやって、昔持っていた子供心を忘れる代わりに今は別の心を持っている。

自分全体として、差し引き何も失ったわけではないのだと。

 

そう信じていた。

そう信じることで現実から逃れようとする節があったのかもしれない。

 

子供が巣立った両親は、これまで培った子供の成長が、手元から離れる。日常生活で自分の手元にないと、不安になるものは多々あるが、最も愛情のこもったものは、子供かもしれない。

 

手元から失って、何か抜け殻のようになってしまう人も少なくないと思う。その可能性を頭の中では考えつつも、その程度は軽度であることをどこかで思い描いている。

いや、願っている、私がいた。

 

 

この場合、手元に残るものはなんだろうか。喪失感が大きいとしても、自由も手に入るように思うが、でも決して自由は嬉しいものでもないから。

 

少し悲しかった。というより、落ち着いた感情を持った。

何かを失って得たものが、負の感情だったとしても、それは収穫か。

 

私がまた喪失感を感じていないのは、まだ子供だからかもしれない。

 

死ぬまでに同じような日が来るのは、わかっている。

自分が先に失われる立場になったら楽だとは、思わない、

 

でも、失って手に入るもの全てが常に幸せをもたらすとは限らない。

最近ゲットした、新しい考えだ。

 

もし、何か別の得られるものがあるなら、私に教えてくれませんか。

 

2025/11/03

家族旅行にて、祖母が卓球をしているのが、どうにも愛おしくて。

でも、確実に世界から置いていかれそうで。

youtubeショートを見続ける祖母と、痩せていく母へ。

 

 

今週のお題「最近ゲットしたもの」

大人になって、家族旅行に行ってきた。おいしさと笑顔、昔と同じもの。違うもの。

家族旅行に行ってきた。

 

土日の休みを使って、一泊二日の旅行だ。

同じ地方内でそんなに遠くではないけれど、総じて楽しかった。

 

一つは、バイキングが楽しかった。

兄弟がほんの一瞬だけ、大食いのようにデザートを食べる様子が面白かった。

味が美味しいと言うより、食べたいものを食べたいだけ食べられる、その状況が美味しい。

 

それと、天気が良かった。風が美味しかった。

晴天で強い日差しが照りつけて、帽子なしではやっていけないときもあったが、夕方から夜にかけては雨が降ったり、二日目の夕方には涼しい秋の風が吹いたり、表情豊かだった。

 

実はその観光地に、数年前(10年前ぐらい?)に行ったことがあった。

フグと戯れていたのは印象的で、その施設は鮮明に覚えていた。他にも、訪れた場所は何となく、見覚えがあった。

 

ほんとに、なんとなく。

 

見覚えある景色が広がる。

でも、そこに過去の自分や家族はいない。

思い返そうとして、自分の限界を感じる。そうして今の自分に気を取られ、今にしか注目できなくなる。

思い出すための外的なサポートがなければ、そうして記憶は死んでいくのかもしれない。

 

サポートの一つとして写真がある。だから写真は基本的に好きだ。

写真に気を取られすぎて、今を楽しめなくなるのもあまり好まないが。

 

 

ただ、「昔の私はこんなので、今はこんなので、成長している」と言う実感欲しさに、自分の記憶を書き換えることは、こわい。

人間らしくて、いやじゃないけど、負けた気がする。

それでも楽しければ良いのかな。

 

 

今回の旅は、家族の成長を感じられた。

皆落ち着いていて、でも子供は昔のようにはしゃいで疲れて。

 

自分が昔なら車の中で昼寝をしていたはずなのに今回はほとんど昼寝できなかったのは、成長なのか、衰えなのか。

それと、運転中に無邪気に寝ることができていた昔と比べて、運転できる今は、前の車との車間や運転手の睡魔が気になって落ち着かなくなってしまった。

 

楽しいけれど、昔も今もあまりに楽しすぎて、それが切ない。

いつか終わりが来る。なくなる時が来る。崩れる時が来るから、悲しい。

 

私はそうして、今、文章を書いている。

 

 

成長は嬉しいのに、

悲しい笑顔しかできなくなっていきそうで。

 

2025/09/21

三時間前まで観光地を車で走っていたなんて。現実が、怖い。

カテイ。家、過、仮、

家族との時間はかけがえのないものである。

 

その中身をよく考えてしまえば、大したことはしていない。

家族は、万博に行って最新の技術に触れることよりも、近場の公園で会話をすることの方が、魅力を感じるという。私もこれはわかる。

 

家族は、過程を大切にしてきたと思う。

生まれてからこれまで、母間毎日私の面倒を見てくれていた。食事を作るのはもちろん、学校の準備や勉強まで、干渉しすぎない程度に見守ってくれていたのは、見守られていた身からもすごくわかる。父も、そんな大変な母を支えてくれていた。どちらかが欠如していれば、今の私はいないだろう。

だから、一人暮らしをするときはすごく寂しかった。

だから、家族が病気かもしれないと聞くのは本当に嫌だ。

 

だから、今を大切にして、家族がいることの喜びを噛み締めるしかないのだと思う。今の自分は家族のおかげであることを、何度自分に言い聞かせたらわかるのだろう、といつも思ってばかりだ。そんな思いをどんどん薄めてしまう「環境」というものは、ひたすらに怖い。

その薄まっている事実を感じさせないからだ。

 

まとめると、家庭過程なのだ。

 

自分が一人前の人間になるように、日々私の成長を第一に思ってくれていたのか家族であり、家庭という環境だ。その中で、日々成長していく様子、つまり過程を大切にしていた。

 

なるほどと思った。

万博に行くのは、万博に行った先で興味深い展示があるからだ。

でも公園で会話を楽しむのは、公園の景色や環境でなくむしろ、誰とどんなふうにそこに滞在するかという過程を楽しむのではないか。

公園も万博も、一人で赴いても同じ結果が得られるが、客観的により楽しいとされるのは万博かもしれない。その場で見る結果が楽しいから。

 

 

私は今後どのように振る舞えば良いか考えた。今後の過程とは何か。今後の家庭とは何か。

家庭は、そこに人がいることが要素として大きい。だから、共に時間を過ごすのが第一だと思う。過程は、いつか家庭がなくなるその日までのことかもしれない。その日を迎えるまでに、後悔のないほど家庭を大切にしてこれたかどうか、振り返っている自分が容易に想像できる。

 

今日、GWぶりに家族と会った。

実家に帰ったものの、ここ数週間のイベントや日常の忙しさで、大半を寝て過ごしてしまったのは後悔だ。でも、そのほかの時間は楽しかった。

家族が私の一人暮らしの家を去るとき、寂しかった。

何度経験しても寂しいものだなぁ、と思った。

 

また、日常を過ごしていく。

自分が家族を大切にするほど、家族は嬉しいのだと、それが自分の生きがいだと仮定して。

 

 

6/29

梅雨明け宣言

 

諸行無常の日々

最近。一つ大きなものを失った。

 

自分の家のように出入りしていたい場所だ。引っ越しをした。

 

例えば、学校には毎日通う。だから、卒業は悲しい。

小学生の頃に毎日のように通った公園。あれも、遊具がなくなった日には悲しかった。

 

結局は、そこに何があるか。そして、何をしてきたか。

自分の人生の一部であったものが、形がなくなり、記憶の中に無形のものとして残る。それは、無形であるがゆえに、持っている感覚を実感しづらく、したがって不安が募る。

 

この不安に耐えられずに、私は涙を流すような気がする。

 

目に見えるものを信じている日々が、逆に私に大きな安心感を与えていたのだと、その時に知らされる。これが、よく言われる「失って初めてわかる大切さ」なのだろうと。

最近やっと、そう思った。

 

 

心の中で生き続ければ、悲しくないなんて、自分を騙せるはずもなく。

 

2025/05/21

 

表裏一体の桜を見て

桜が咲く

 

綺麗な桜は、私たちに幸せを与えてくれる。

一方で、桜が嫌いな人もいる。

例えば、お花見スポットの近くの飲食店に勤めているアルバイト職の人。時給は同じなのに、この時期は忙しくなる。早く桜の季節が終わって欲しいと思うのではなかろうか。

 

全てのものは、ある人にとってよければ、ある人にとってはよくないものであることが多い。

 

最近気づいた、生きていることは、自分にとっては想いを大切にすることであって、それが命と直結するわけではない。

自分が生きているからこその周りからの想いが強いから、命が尊いように見えるのであって、でも命がなくなってその思いの尊さまでなくなるかといえば、そうではない。

命にカモフラージュされて同時に蔑ろにされる想いがないようにしなければならない。

 

と、抽象的だが最近は思っている。

 

結局自分はなんのために生きているか、と言うより、何を思って生きているか。それが一番に考えられるべきなのだろう。

 

桜は美しい。

心に余裕があるから、桜は輝いて見える。

 

今年も桜は美しかった。

あの桃色を、全ての花が持っていても、それでも美しいと思う自信はない。だから今の目の前にある桜を見にいきたい。

 

お花見していれば、美味しいものを食べていれば、それで幸せじゃないか。

幸せで何も悪いことなんてない。

と言うのは自分視点で、幸せは誰かの不幸になっているのかもしれない。

 

そうは言うものの、結局実感はなく何もわからないのだから、自分は自分が善だと思う方法でこれからも生きていきたい。

 

桜を愛でて、生きていきたい。

 

 

近所の桜は葉桜になりました。

2025/04/15