急に休みになったら、苦しい。外出強迫症。

今週のお題「急に休みになったら」

 

このお題は、自分にとって非常に大きな価値を持っているように思えます。

というのは、急に休みになると、私が今できることを探したいと思えるからです。

 

休みの日があれば、お出かけしたい。

 

このように私は思いがちです。このことは自分が一番よく知っています。

私は、どこかに出かけると、何かを楽しむ。新しい風景や出来事に心躍らせる。そのような自分の性質を活かして、自分の休日を充実させようとします。

例えば私は数週間海外に渡航した際に、平日は遊ぶ時間がなかったのですが、休日は休みでした。そして、全ての休日において、拠点の宿を出て観光地を巡りました。

慣れない環境で休みも取らずにいると体に疲れも溜まっていたでしょう。それでも、出かけずに宿にいるのが勿体無いという思いから、出かけていました。

 

この思考のプロセスは自分だけに特異的なものなのでしょうか。

この思考は、一見時間の有効活用に思えますし、人生のQOLを上げるような気がしなくもありません。

ですが、この考え方が自分にダメージを与えることもあるようです。

例えば、先の海外の例では、外出に時間を割きすぎて体を休める時間が取れず、それが原因か、帰国の際に体に不調が現れました。

 

休みがあれば出かけたい。

 

この言葉は、自分を追い込みました。

 

どこかに出かけなければ、時間を無駄にしているとまではいかなくとも、もっと自分に新たな経験をもたらす機会に出会えるのに、、と悔しくなる時があります。

ですが、これはある種の強迫観念なのかもしれません。

時間を有効に活用しなければならない。という固定観念。思い込み。

 

ゆっくり家の中で過ごすのも、いい。

そう気付いたのは、つい最近になってからでした。

 

人生は、得たもの全てが、死んだらなくなる。どれだけ学んだものや得たものがあっても、死んでしまえば全て無になる。

だから、というわけではないが、絶対に時間を有効活用しないといけないという考えは、人生の条理としてふさわしくないのかもしれません。

 

それでも私は、この考えからまだ離れられていません。

離れられないことが、多少の無理を私に強いた上で、私を成長させてきたのかもしれない。そう思うと、なぜか切り捨てられないこの考え方。

 

今もまだ、悩まされています。

最近、自分の死に方をふと考えることがありました。

時間の有効活用というのは、それにも関係してくるのかもしれません。自分の体や価値観に照らし合わせて時間を使いたいと思います。余命が短ければ、どうだとか。

 

もう一度、お題に戻ります。

もし、急に休みになたら、、私は、休みの過ごし方についてゆっくり考えるでしょう。

自分を悩ませる質問であり、現時点では将来に続く疑問であります。

 

そんな急に休みは出現しないこともわかった上で。

 

2024/01/22

自分の人生とも言える存在

一人暮らしを始めて9ヶ月、もう一度その意義を考え始めました。

 

なぜ自分は一人暮らしを始めたのか、

自分の時間をつくりたかったから

 

でも、自分の自由な時間を作るということは、それまでに誰かといた時間を手放すということです。その誰かに、知らず知らずのうちに迷惑をかけてしまう可能性もあります。それなら、自由な時間を作るべきか否か、考え直す必要も出てくるかもしれません。

とにかく、私も自由な時間を作るために誰かとの時間を失ったのかもしれません。

下宿を始める場合、手放した時間は、家族との時間でしょう。

 

母は、私が小さな頃からずっとそばにいてくれました。

小学校の帰ってからの情景をすぐに思い浮かべます。

帰って、片付けをしてもらったり、忙しいのにご飯を毎日作ってもらったり、学校からの連絡や提出物を見てもらったり、おやつを準備してもらったり、、

とてつもない労力と時間、そして金銭を消費させてしまいました

 

今でも、たまに合えばご飯に連れていってもらい、実家に帰る旅に後はにゃおやつなどあらゆるものを提供してくれる

せっかく自分が日々体力を使いながら頑張って貯めたお金を、十分すぎるぐらい渡してくる

 

母の命を削らせて、自分が良い生活を送ろうとしている。実際に送っている。

そんな日々が、自分おことなのに悲しくなってきました。

 

そんな母を含めた家族もいつか命の終わりが来る。会えなくなる日が来るでしょう。

それまでに、たくさん会って話をして、笑って、生活の助けをしながら、また昔のように面倒を見てもらいながら甘える。

そんな生活もいいのかもしれません。

 

一人になって自由を得た。自分の時間は楽しいものです。

でもだからといって、それまでの生活が悪かったかというと、そんなはずは全くありません。

 

私は今、大きな葛藤の中にいます。

命に限りがあることがつらいと、今一度考えます。

 

死んでしまう前に、今を大切にしたいと思います。このようなことを考える度に、そう思うのですが、常に思い続けられないのもまた、残酷で涙が出そうです。

 

より良い明日を、母と過ごせますように。

 

2024/01/13

学問と挑戦:新年の目標と思い

新年も明けて一通り落ち着いたこのタイミングで、去年の振り返り

 

もう忘れてしまった程前と言い切れるほど前の話ではありませんが、ある程度前の話のようには思えます。昨年末に一つも大きな忘年会に参加しなかったから年を忘れられていないということはさておき、、、

 

 

昨年を振り返って、私は何をしたのだろうか、と思いを馳せていました。

夏には、人生で初めて、海外・マレーシアへ渡航しました。実際には、大学のプログラムの一環で複数人で海外へ出向いたのですが、他の友人とは現地で数回会う程度で、海外への行き来や現地での生活は基本ずっと一人でした。

英語圏に放り出され、見ず知らずの言語が飛び交う中、慣れない味の料理とともに二週間の時を過ごしたのは、非常に良い思い出です。

従って、これが私の今年一のイベントだったように思います。

 

それ以外にも、いろいろな役職に就いたり、旅行に行ったりしました。

ですが、何か物足りないような気もします。

周りの人が、自分より大きな業績を成し遂げているように見えるからです。

 

自分の今年を表すイベントはなんだったか考えると、自分の体調に関することが思い浮かびます。私は体調がすぐれず、今年様々な治療を試しました。

それでも、治療の中でなかなかうまくいかず、友人との遊びや集まりなど、多くのことも犠牲にしました。

今も万全ではありません。

体調を理由に、他のことができないと言い訳をしたくはありませんが、体調によって多くのことが妨害されてきたことは事実です。

 

ただ、生まれながら裕福な家庭にいるとか、偶然の伝手をえるとか言ったことと同様、発症自体は自分には操作し難い運命的なものだったと考えると、受け入れやすくなります。

同時に、病気がない人を羨んだりはしていないのはそのせいかもしれません。

 

ただ、今年は何かしたい。大きな試験を受ける予定ではありますが、それ以外にも何かしたいです。

 

ブログを書いたり、趣味程度の音楽を進めたり、といったものでも以下もしれません。決して業績を残すことだけが正義ではないと思います。

確かに実績は大切です。

 

これが実績を得られていない人目線の嫉妬ではないことを願って、、

 

私は、今年学問も頑張りつつ、何かしたい。

かつて、勉強をコツコツ頑張って得た、功績が嬉しかったように。

 

 

年末を振り返って

2024/01/11

夏休みになって、海、川、バーベキュー

夏休みになった。

 

夏らしいことをしたいと思います。

花火大会、手持ち花火、BBQ、海、山、、、

 

夏という言葉から思い浮かぶことは多くあります。

 

これらは夏にするから、夏休みにするから楽しいのです。

充実感も出るのです。

 

ですが、体に無理を言わせてはいけません。

海や川遊び、バーベキューなんかは特に体力を消耗します。自分の体力を知っておくことは難しいですが、その限界を超えると体に悪影響が及ぼされます。

 

私も昨日バーベキューをした後、手持ち花火をする予定でしたが、他の人たちがまだ肉を焼いている中、一人コテージに入って仮眠をとっていました。

 

関係ないですが、誰かと遊びにで抱えた時に、自分だけ体力レベルが異なると周りに合わせられなくなり、少し困りますね。

優しい人ばかりですから、特に咎めたりは全くされないですが、雰囲気を壊しそうでハラハラします。

 

 

夏といえば海!

そんな声が色んなところから聞こえてきます。私も楽しませてもらいました。夏だからこそできる行事、いいですね。

最適なシーズンが決まっているからこそ、今がいい

 

こんなことを以前もお話ししたように思います。

 

一緒に行きたい人がいるというのも良い。

その年に一緒に行けるかどうかは別として、

 

一緒に行ける日が来ることはわかっているのに、今の状況に嘆く。これは普通なことではあるが、客観的に見て惨めなのかもしれません。

 

ワクワクしながら、来年に期待している自分を俯瞰し、幸せを感じます。

 

2023/08/08

さつきやまい

5月はゴールデンウィーク

 

といっても良いほどに、その存在感は強い。

 

今年のゴールデンウィークは仕事がなく、全てを自由に使える年でした。

何日かお出かけをして、日頃のストレスを発散でき、非常に満足です。

だからこそ、人は五月病と呼ばれるものを患ってしまうのかもしれません。

 

楽しかった記憶が、頭の中から離れない。「ゴールデンウィークは5連休で長い」という考え方も、頭から離れない。

普段の学校や仕事が始まってしまえば、そんな休みへの思いは晴れて忘れることができるでしょうが、休み中はそうはいかない。暇になればなるほど頭によぎります。「もう休みが終わる」という悲しさが。

 

夏休みが終わる頃、私たちは学校が始まると言うウキウキ感と、もう休みがないという絶望感が入り混じります。

私たちが絶望を感じる理由は、休みが終わるからですが、具体的には何が悲しいのか。休み期間は勉強をしなくてもいいということもあります。ですが、ゴールデンウィークは課題がある場合も多いから、勉強が始まることだけではなさそうです。

 

私は、丸一日学校に行かなくて良い日、すなわちどこかへ出かけたり、家の中でゴロゴロする日がなくなることへの絶望だと感じます。

丸一日休みがないと、私たちは何もできません。

お出かけや、一日中寝るという行為は普段の学校がある日なら土日祝しかできません。その祝の一部分がGWです。

 

お出かけができない。

遠くに行けない。

美味しいものが食べられない。

新鮮味がない。

目の前の日々に面白みがない。

こんな面白みのない日を続ける必要があるのだろうか。

もう考えたくない。

 

そうして人は休み期間が終わるのを拒もうとしますが、それは抵抗して止めることができません。

私たちは、人生という長期間で自分を俯瞰することを苦手としているのかもしれません。目の前から自由な時間がなくなり、人は嫌気を覚えるのかもしれません。

 

それでも、生活していれば勝手に学校は始まり、勝手に授業は行われ、いつも通りの課題を嫌々ながらこなし、テストを迎え、長期休みを迎えます。

 

人生は繰り返しでできていると、時々思います。

人生の節目ごとに新しい人間関係を同じように捉え構築していくというのは以前にも書いたことがあります。

 

今回の長期休み明けの憂鬱も、その繰り返し。

嘆いても繰り返す。

 

みんな来てほしくないと思っています。

私は、そんな憂鬱を受け入れることができるでしょうか。

 

何もしないで寝ることで解決していいのでしょうか。

せっかくの休みだから何かしたほうがいいのでしょうか。

 

人生という長い視点で、私は今していることが、最善かどうかを考えるべきでしょう。

何もしないのは勿体無い。

 

と、思うことが大事なのかもしれません。

 

そう思うこと、そう思う人が増えることがこのブログの意義なのかもしれません。

 

 

書いていることに意味があると信じる。GWをこんなことに費やすのは意味があると信じている。

私のGWは充実していた。

 

皆さんも、このような客観的な文章を読み、考えていることで他の人よりも一歩踏み出していると思うようにしてみてはいかがでしょうか。

 

2023/05/07

桜を見て、日々の幸せを考えてしまうことは

桜を見に行きました

真っ黒な夜空にぼんやりと浮かぶ白い花びらたちが、幻想的で、非常に綺麗なライトアップだったので、幸せを感じました。

 

京都に行きましたが、多くの観光客で賑わっており、外国人も多く見られました。

ほとんどの外国人はマスクをしておらず、日本人よりもその割合は高いように思われました

 

有名な京都八坂神社に隣接する円山公園には、屋台が並んでおり、美味しいそうな匂いがしていました。

 

美味しいものを好きなだけ食べられるということは幸せなことです。

 

健康な人はその幸せに気付きにくとは思います。

 

大切なもの(に限らずあらゆるもの)は、失って初めてその大切さ(や存在の大きさ)がわかるのです。

 

何度も聞いたような話ですが、これは多くの人が経験したことのあることではないでしょうか。

 

私もこれまで何度もこれを経験してきました。

が、まだ身近なものの幸せに想いをはせることは少なく感じます。

 

もしその幸せを考えたように思っていても、失った際の大きな衝撃に適うことはないのではないでしょうか。

 

そんなことを思いながら、今日も桜を堪能させてもらったのですが、これができなくなる可能性がいつ訪れるかもわからないのです。

 

 

今日という日の幸せに、口だけでなく心の奥底から思い巡らせることができたなら、今できる最適解の人生になっているのではないかとも思っています。

 

そんな難しいことを考えず、ただ日々順調に生活することもまた、というかそれこそが幸せだとは感じますが、、。

 

2023/04/02

 

ひとりになって

昨日から、一人暮らしが始まりました。

これまでの人生において、実家を5日以上離れたことがありません。4日以内ならば修学旅行などで実家を離れたことがありますが、その際は頼れる友人がいました。

 

今回も、近くに友人はいます。しかし、常に一緒にいるわけではありません。

 

全てを一人でしなければならないのですね。

 

料理や洗濯、掃除を含めた家事はほとんどしてこなかったので、全く慣れていません。

 

一方で引越しの時に収納のコツを家族に伝授してもらったこと、またはじめはモノが少ないことから、現在は多くのスペースが空いています。

 

逆にそれが寂しさを増します。

 

その寂しさを紛らわすために、スピーカーを購入しようと思います。音楽を流すためのものです。Amazonや、安ければ百円ショップでも売っていると思うので探してみます。ワイヤレスイヤホンを以前探した際は、音質よりもノイズキャンセリング機能を重視したのですが、家の中で使用するものだと、やはり音質を重視したいものです。

 

話を戻します。

私自身、下宿は自分から言い出した上に、準備段階においても、実家に名残などありませんでした。実家では始めたばかりのアコースティックギターを思い切り弾いており、それができなくなることへの懸念ほどしかありませんでした。

 

それでも昨晩、家族と最後の外食をした後、下宿に一人置いて帰ってもらった時には流石に寂しく感じました。

 

なぜこれを想像できなかったのかとふし不思議になるぐらい、自然な感覚に思えました。

家族にも寂しさを覚えさせたと思います。

 

自分は、家を離れる直前にも、そんな気配はあまり感じさせなかったように思います。

自分がそんなに寂しいと感じていなかったからだと考えられます。

 

 

今は寂しさが残りますが、とにかく始まってしまったものは仕方ないのです。

今を大切に生きたいと思います。

特に、体を大切にしたいと思います。これは家族にとっておそらく一番の願いだと思います。その話はいずれ。

 

2023/03/27